日々是好日 - Seize the Day

煩悩だらけで無力で、罪深い人間の戯言です。

一隅を照らす

 「一隅を照らす」ということばは、好きなことばの一つだ!二十代の初めごろに知ったのだが、当時は自殺願望もあり、世の中に背を向けていた自分には何も感じられなかった。
 最近、散歩途中、立ち寄った天台宗のお寺の看板にこれを見つけた。



 最澄(天台宗)の『山家学生式』の中のことばだ。『山家学生式』の原文は以下の通り。


国宝何物。宝道心也。有道心人名為国宝。故古人言、径寸十枚非是国宝、照于一隅此为国宝。古哲又云、能言不能行、国之師也、能行不能言、国之用也、能行能言、国之宝也。三品之内、唯不能言不能行、為国之賊。乃有道心佛子,西称菩薩、東号君子。悪事向己,好事与他。忘己利他、慈悲之极,釈教之中出家両類、一、小乘类、二、大乘类、道心佛子即此類。今我東州但有小像,未有大類。大道未弘,大人難興。誠願、先帝御願、天台年分、永为大类、為菩薩僧。然則枳王夢猴,九位列落,覚母五驾,後三増数。斯心斯願不忘汲海。利今利後,暦劫無窮。


訓読してみた。


 国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名付けて国宝と為す。故に古人言ふ、「径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり。」と。古哲また云ふ、「能く言ひて行ふこと能はざるは国の師なり。能く行ひて能く言ふこと能はざるは国の用なり、能く行ひて能く言ふは国の宝なり。三品の内、唯だ言ふこと能はず行ふこと能はざるは国の賊と為す」と。乃ち道心有る仏子を西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向かへ、好事を他に与へ、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。釈教の中、出家に二類あり。一つには小乗の類、二つには大乗の類なり。道心するの仏子、即ち此れ斯の類なり。今我が東州に但し小像のみ有りて未だ大類あらず。大道未だ弘まらず。大人興り難し。誠に願はくは、先帝の御願、天台の年分永く大類と為し、菩薩僧と為さん。然るときは則ち、枳王の夢猴、九位、列り落ち、覚母の五駕、後三、数を増さん。斯の心、斯の願、海を汲むことを忘れず、今を利し後を利して、劫を歴れども窮まり無けん。


 このうち、「径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」であるが、ある人は、「直径一寸の宝石は国宝ではない。世の中の片隅にいて、国に貢献する人こそ国宝だ」と解釈する。だが、わたしはこの後半部分の解釈にあまり感心しない。「国に貢献する」のではなく、「片隅である世界、それは職場であったり、家庭であったり、その場所(一隅)を明るく照らす人こそ国宝だ」と解釈したい。

 具体的に考えるなら、正しい生き方を求めながら、一生懸命に生きて、笑顔で周りの人たちを潤わせるような人、また、人のことを思って、喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったりするような人だと思う。そういう人を見ていると、心が和ませられるし、勇気づけられ、その場は明るくなるだろう。まさに「一隅を照らす」だと思う。


 そう考えると、これまで一隅を照らす人に大勢出会ってきたように思う。その人たちによって、ぼくは若いころの自殺願望から抜け出せたのだと思うし、前向きに生きようとするぼくの生き方を変えてくれたのだろう。一方、一隅を照らす人もいるはずだ。


 今、自分の居場所、それがどんなものであれ、「吾唯足るを知る」の精神で、その世界を一生懸命に生きて、周りを照らしてくれる人はみな「一隅を照らす人」だ。絶望している人も、与えられた環境に不満を持つ人も、その人によって、明るく生きられる。そんな人になりたいと思う。

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