紫蘭は前にも記事にしたが、それ以外にも紫とか青の系統の花がたくさんあるようだ。名前を調べる時間があまりないまま、ここに写真を載せる。それから、紫蘭だが、その隣に同じ形の白いのもあった。花にはいろいろあるんだ。人間にもいろいろあるんだ。それでいいんだ。これしかないという生き方がないように、花も人もそれぞれ個性的、少しずつ違いながら、生きているんだ。花も虫も鳥もみんな生きているんだと思わされる。
近所のお寺へ、散歩を兼ねてお参りに行った。もちろん、コロナ終息を願いに行った。世界平和も祈った。
境内を歩いていると、草むらの中に猫を発見。カメラを構えるが、なかなかこちらを向いてくれない。石の上で、5月の穏やかな空気を味わっているかのように、どこかをぼんやり眺めている。
かと思うと、おもむろに動き出して、何かを追いかけているのか、何かを探しているのか、ガサガサと動き始めた。
世間では、コロナで休業を余儀なくされ、国の救いもなく、未来が見えなくなっている人もいる。仕事も収入もなく、外へ出ることもできず、家にじっと閉じこもっている人もいる。
世界の動物園では休園せざるを得ず、職員の給料が払えないばかりか、動物の餌代もなく、死に瀕している動物もいると聞いている。世界の未来はひどく暗い。
今、目の前のこの猫には、何か憂いがあるのだろうか。何の憂いもなく、いかにも楽しげに見えるのだが、さて、本当はどうなのだろうか。
いろいろな動物を見ていて思うのは、目には心が表れているということだ。
テレビドラマを見ていると、相手に背中を見せながら、話すシーンがよくある。
ひどく不自然なシーンだが、それがドラマなんだと仕方なく思っている。
おそらく、生きているものはすべて、目に真実の心を表していると思う。
人の目を見て話さない人たちの集団があるとすれば、それは虚言の世界だ。
目は真実を語っているのだと思えば、目を見て話すことは重要だ。
だが、今、コロナウィルスのせいで、それがますます難しい世の中になった。
ネット通販とかオンライン会議とかが主流になる時代だ。
まもなく、時代は大きく変わり、ものの価値は一変するだろうが、ぼくは変わらない。
時代遅れの人間かもしれないが、卑下する気持ちはない。
人と人との交流に欠かせないものは目の奥に有る真実である。
時代がどんなにが変わっても変わらないものがあるということをぼくは信じる。
それは嘘をつかない正直な心であり、それを映すのは目だ。
人と接するときは、言葉はなくともいい、互いに目を合わせて、心を通わせたいものだ。
このごろ、だんだんと昼夜逆転が進んでいる。
今、眠れないまま、夜明けを迎えてる。かつて、寝ないで、夜明けの空を眺めることは何度か体験した。
例えば、学生のころ、富士急ハイランドで夕方6時から15時間の仕事をして、夜明けに、外に出て空を見上げたら、真上に富士山があったとか。
大晦日に鎌倉の宿に泊まって、寝ないで正月を迎え、初日の出を拝んだとか、そういえば、以前は大晦日は寝ないで、初日の出を拝んだものだ。横浜や鎌倉の初日の出などたくさん見たものだ。
だが、今は少し状況が違う。したくてしている徹夜ではない。寝たくても寝られないのだ。仕事がないのだから、寝ても寝なくてもどちらでもいいという状況だ。そんな中で迎える夜明けの空。
東の空は、不思議な雲がポカリポカリと浮かんでいる。西の空は白い下弦の月が山並みに向かって落ちていく。
雲の間に見える青い空。この青空の向こうには想像を越える広大な宇宙があるのだろう。宇宙から見れば、ぼく個人も小さな存在だ。コロナ危機も小さな出来事なのかも知れない。そんなことを感じながら、朝を迎える。
ツツジの散る小川
夏風に波打つ水面
淀んだ流れの中を
人も花もたゆたう