日々是好日

無知による思い込みが偏見を生み、人間の持つ煩悩が憎悪を生む。

白い空!

 彼岸過ぎ蕾もすぼみ雨寒し


 暑さ寒さも彼岸までというが、
 今年の三月は、
 二十日の彼岸が過ぎて、
 東京のソメイヨシノが開花して、
 いざ春爛漫!
 かと思いきや、
 冬に逆戻り。
 天気にクレームをつけても仕方ないが、
 あまりに寒すぎる。
 開花した桜も満開へ至る足取りを緩め、
 色づいた蕾がまたすぼみ、
 雨降り続き、
 冷たい風の吹いて、
 こぶしの花も散り始めた。
 西の山並は雨雲に隠れて
 どこまでも白い空。

一隅を照らす

 「一隅を照らす」ということばは、好きなことばの一つだ!二十代の初めごろに知ったのだが、当時は自殺願望もあり、世の中に背を向けていた自分には何も感じられなかった。
 最近、散歩途中、立ち寄った天台宗のお寺の看板にこれを見つけた。



 最澄(天台宗)の『山家学生式』の中のことばだ。『山家学生式』の原文は以下の通り。


国宝何物。宝道心也。有道心人名為国宝。故古人言、径寸十枚非是国宝、照于一隅此为国宝。古哲又云、能言不能行、国之師也、能行不能言、国之用也、能行能言、国之宝也。三品之内、唯不能言不能行、為国之賊。乃有道心佛子,西称菩薩、東号君子。悪事向己,好事与他。忘己利他、慈悲之极,釈教之中出家両類、一、小乘类、二、大乘类、道心佛子即此類。今我東州但有小像,未有大類。大道未弘,大人難興。誠願、先帝御願、天台年分、永为大类、為菩薩僧。然則枳王夢猴,九位列落,覚母五驾,後三増数。斯心斯願不忘汲海。利今利後,暦劫無窮。


訓読してみた。


 国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名付けて国宝と為す。故に古人言ふ、「径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり。」と。古哲また云ふ、「能く言ひて行ふこと能はざるは国の師なり。能く行ひて能く言ふこと能はざるは国の用なり、能く行ひて能く言ふは国の宝なり。三品の内、唯だ言ふこと能はず行ふこと能はざるは国の賊と為す」と。乃ち道心有る仏子を西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向かへ、好事を他に与へ、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。釈教の中、出家に二類あり。一つには小乗の類、二つには大乗の類なり。道心するの仏子、即ち此れ斯の類なり。今我が東州に但し小像のみ有りて未だ大類あらず。大道未だ弘まらず。大人興り難し。誠に願はくは、先帝の御願、天台の年分永く大類と為し、菩薩僧と為さん。然るときは則ち、枳王の夢猴、九位、列り落ち、覚母の五駕、後三、数を増さん。斯の心、斯の願、海を汲むことを忘れず、今を利し後を利して、劫を歴れども窮まり無けん。


 このうち、「径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」であるが、ある人は、「直径一寸の宝石は国宝ではない。世の中の片隅にいて、国に貢献する人こそ国宝だ」と解釈する。だが、わたしはこの後半部分の解釈にあまり感心しない。「国に貢献する」のではなく、「片隅である世界、それは職場であったり、家庭であったり、その場所(一隅)を明るく照らす人こそ国宝だ」と解釈したい。

 具体的に考えるなら、正しい生き方を求めながら、一生懸命に生きて、笑顔で周りの人たちを潤わせるような人、また、人のことを思って、喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったりするような人だと思う。そういう人を見ていると、心が和ませられるし、勇気づけられ、その場は明るくなるだろう。まさに「一隅を照らす」だと思う。


 そう考えると、これまで一隅を照らす人に大勢出会ってきたように思う。その人たちによって、ぼくは若いころの自殺願望から抜け出せたのだと思うし、前向きに生きようとするぼくの生き方を変えてくれたのだろう。一方、一隅を照らす人もいるはずだ。


 今、自分の居場所、それがどんなものであれ、「吾唯足るを知る」の精神で、その世界を一生懸命に生きて、周りを照らしてくれる人はみな「一隅を照らす人」だ。絶望している人も、与えられた環境に不満を持つ人も、その人によって、明るく生きられる。そんな人になりたいと思う。

改革!

 何もしなかったら、何も起こらない!(シェークスピア)

 ぼくはこのことばが好きだ。過去の成功者は、周囲の反対や不満を押し切って、自分の信じることを成し遂げた人たちだ。ガリレオ・ガリレイもスティーブ・ジョブズもそうだが、彼らばかりではない、数多くの成功者がいる。逆に周囲に妥協してばかりいて、成功した人はあまりいないのではないか。


 今日、7チャンネルのFOOT・BRAINに出演した池田純氏、2011年、DeNAの横浜ベイスターズ買収に伴い、35歳の若さでベイスターズの社長に就任して、赤字続きだった球団を黒字に転換させた有能なビジネスマンだ。FOOT・BRAINで語ったことは、番組の最後でも紹介したシェークスピアの言葉である「何もしなかったら、何も起こらない」ということばに集約される。
 
 ぼく自身もこの言葉を信じているし、これまで、いろいろな場面で、そうしてきたつもりだ。ただ、ぼくには何かの能力が不足しているため、成功しなかった。それは何だったのかと思い悩んでいる。そこへ、この放送だ。興味深く見た。


 池田純氏がベイスターズでやったことは、徹底的な面談と細かいデータ分析、そして、意識改革。スポーツをビジネスとして成功させるには、チームの監督とは違うノウハウがあるということだ。このことは大事なことだ。今後、教育に関わる限り、重要なポイントになるだろう。


 世界で、「CHANGE」や「改革」という言葉がしばらく流行した。それが今、下火になったような気がする。安倍政権になってからは、「良心」や「誠実」というものを持たない人たちが国に貢献するような「道徳」を掲げている。桜も咲かないうちに、すでに、何かが散ってるような気がしてならない。

どんよりとした心

暖かい日が続いたら、また寒くなるこのごろ、今日は気温10度あまりの寒い一日、午後、買い物がてらの散歩、公園でソメイヨシノの蕾を見るが、まだまだ色づく気配もなく、仰ぎ見る西空は黒い雲でどんよりとしていて、小川沿いの道を歩けば白木蓮やユキヤナギが白い花を咲かせているものの、何となく心までどんよりとしてきて、考えてみれば、3月は仕事がなく、生活のリズムも狂いがちで、じゃあ、と言って、テレビをつけてみるが、どのチャンネルも興味深い番組がなく、だんだんつまらなくなってきて、それもそうだ、毎日のように、ニュースで、嘘つきたちがなじりあいをしていているかと思うと、芸能人たちが馬鹿笑いするばかりで、それに、うるさい携帯のコマーシャル、ギャンブル依存症やアルコール依存症を助長するコマーシャルを見て、うんざりするが、ただ、時には、酒を飲みながらのスポーツ観戦で少しは心が晴れる。





足踏みする春


 21日、靖国神社にあるソメイヨシノの標本木に開いた花弁が5つあり、東京で開花宣言が発表された。そして、今日は上野でも開花したという。いよいよ春が来たと思ったが、あまり、暖かさは感じられない。


 今日は公園に行ってみた。玉縄桜はまだピンクの花びらが残っているものの、すでに薄い緑の若葉がいっぱいになっていた。同じ公園内にはソメイヨシノもある。いろいろ見て回ったが、ピンクの蕾はひとつもなかった。春まだ遠い感じだ。


 春が顔を少し覗かせた後、足踏みをしているように思う。コートなしで歩いている人も少ない。公園は確かに玉縄桜や河津桜などがきれいに咲いているものの、団地内の道を歩いていたら、花はまだ少なく、いや、蕾があちこちに見えるが、まだまだ冷え冷えとした空気が春まだ通しという感じだ。


「春が来た、春が来た、どこに来た、山に来た、里に来た、野にも来た」というが、ぼくの身の回りを見回しても、本当にどこに来たのだろうかという気分だ。ただ、白木蓮はすでに咲き始めているが、やはり、ソメイヨシノが咲くまでは「春が来た」という実感がしない。