日々是好日

無知による思い込みが偏見を生み、人間の持つ煩悩が憎悪を生む。

汚れたタオル!

 3か月に一度くらい、スーパー銭湯に行っている。中に千円の床屋があり、そこで髪を切ってから、風呂に入るのだ。サウナも露店もあるので、結構気持ちがいい。昨日の夕方、このスーパー銭湯に行く時、母に「タオルちょうだい!」と言うと、いつものことだが、洗面所のタオルをくれる。以前にはトイレのタオルをくれたこともある。「持って行って、洗ってから使えば同じだ」というのだ。


 大学生のころ、下宿には風呂がなく、いつも銭湯に行っていた。一度、汚れたタオルを持って行っていたところ、いくら洗っても泡が立たなかったことを覚えている。以来、銭湯に行くにしても、自宅の風呂に入るにしても、必ず、風呂専用のタオルを使うようにしている。およそ三か月に一度、毎回同じ話をしている。まるでDéjà Vuである。


 以前、森鴎外の翻訳小説を読んでいて、中に「汚れた布巾でテーブルを拭いても汚れるばかりだ」というような表現を見たことがある。小説のタイトルは思い出せないが、その時、かなり共感したのを覚えている。そうだ、汚れた布巾で拭けば、テーブルはますます汚れるばかりだ。


 あの表現は、確か宗教家が汚れた心で布教しても、人の心をきれいにすることはできないということを暗示していたように思う。教育の世界にしても、教育者の心が汚れていたら、育つ学生の心も汚れてしまう。政治の世界にしても同じだ。リーダーの心が汚れていたら、世界は今にもまして、汚れるばかりだ。

白い花!


たそがれ時、


可憐に咲いて心照らす白い花のように!


純粋な心で、


友のことばに耳を傾け、


嘘偽りなく語らいたい。

ぼくの身体!

ぼくの身体は本当にぼくの身体なのだろうか?
本当はぼくのものではないのかもしれない。
自分の身体を強く意識して悩み苦しむのは、
人間だけではないか?
他の生き物はどうか?
自分を意識しているかどうか疑問だ。
例えば植物はただ自然のままに生じては消滅していく。
方丈記にある、
水の泡のように。
人間も同じ自然の摂理の中で、
存在しているのだから、
ぼくは自然のままに道端の花のように、
自然に抗わずにすんなりと生きて
すんなりと死んでいきたいと思う。
ぼくの身体は自然の中の一部なのだから。

厄年?

 先週水曜日の朝、高熱と頭痛で病院に行ったのだが、今日は4回目の通院だ。発熱の原因となった病気の検査と診察を受けた。


 医師は検査の結果を見せて、「値はほとんど正常な範囲に入っています」という。「じゃ、治ったんですね」と聞き返したら、「まあ、そうですね。もう通わなくてもいいです」という返事だ。完治ではないが、問題はないというところなのだろうか。


 一応治ったということだが、まだまだ問題はある。頭痛のことや、腰痛のことなど、これから治さないと、どうにも仕事ができない。長期の休みに入ったら、また病院通いでも始めようと思っている。


 ところで、ぼくはこれまで、ほとんど病気をしたことがない。病気と言えば、若いころから抱えている持病の頭痛と腰痛だ。それから、二度ほどかかったインフルエンザ。後、けがをして入院したことがある程度だ。内臓の病気で病院へ行くのは、今年一月が最初で、今回が二度目だ。もしかしたら、今年は厄年とかいうやつなのだろうか。

衣替え!

ぼくは5月31日まで、仕事の時は長袖のシャツに上着を着ている。
6月1日になったら、上着を脱いで、半そでシャツを着て、仕事に出る。
そして、10月1日になったら、長袖に上着を着て、仕事に出る。
それが衣替えだと思っている。


高校生の時、ひどく厳しかった。
5月31日に半袖を着て行ったら、怒られた。
10月1日に長袖を着て行っても怒られた。
その習慣に今も完全に縛られている。


ところが、まだ5月だというのに、半そで姿の人がたくさんいる。
中にはノースリーブの男も女もけっこういる。
すごいのはノースリーブに短パンにサンダル姿の男性だ。
時代が変われば風習も変わるということか。


まもなく、衣替えという風習もなくなるのだろうか。
だが、思う。
例えば、朝、何時に起きて、何時に仕事を始めて、といったリズム。
これが一日の習慣。


衣替えも田植えなどという年間の風習であり、一年のリズムなのだ。
なんだか、何が何でも守りたいという気持ちになって、
5月の間、どんなに暑くても上着を来て、
9月の間、どんなに寒くても上着を着ない。


世間的に言えば、ぼくは変人なのかもしれない、
時代遅れなのかもしれない。
しかし、この頑固さで一年のリズムを作っている。
そしてこの頑固さこそ、昭和の証だと思っている。