日々是好日

無知による思い込みが偏見を生み、人間の持つ煩悩が憎悪を生む。

紫蘭!

毎年、夏の到来を知らせる花!
バス停から家までの道端にある紫色の蕾が開花していた。
いつも何の花かと思っていたら、ネット友達のページで見つけた。
「紫蘭(シラン)」だそうだ。


ふと思い出したダジャレの歌!
「この花の 名は何ぞと 尋ねても みなシランという 紫の花」
それにしても蘭の花は何もかも艶やかで愛らしい。


ぼくは住む家を転々として、30か所ぐらい引っ越してきた。
若いころ、一度だけ、田舎に自分の家を建てたことがある。
近くには山があり、しばしば春蘭を探して歩いたものだ。


やっとで見つけた春蘭を自分の家の庭に植えて、毎日眺めていた。
あの家は今、他の人が住んでいる。
あの花は今も咲いているのだろうか。
ふと懐かしく思い出す。

五月の貴公子


 五月は好きな季節である。というのも、若いころ読んだ萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の中の「五月の貴公子」という詩にぼんやりとした憧れを持っていたからだ。


   五月の貴公子


 若草の上をあるいてゐるとき、

 わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、

 ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、

 まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどつて居る、

 ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、

 わたしは柔和の羊になりたい、

 しつとりとした貴女あなたのくびに手をかけて、

 あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、

 若くさの上をあるいてゐるとき、

 わたしは五月の貴公子である。


 緑の多いこの時期、毎年、五月の緑の若草の上を歩きながら、勝手に五月の貴公子になった気分でいた。年には関係なく、人は永遠に貴公子になれるはず、そういう気分を持って五月の心地よい季節を過ごすことも一つの楽しみだ。

雨の一日!


 今日は一日雨だった。午前中、歯医者へ行って、新聞を買って帰ってきた。午後からは母を連れて、駅まで行くつもりだったが、天気が悪いので、母が出かけたがらず、結局、夕方までドラマを見て、過ごした。
 ところで五月に降る雨と言えば、松尾芭蕉の句を思い出す。


 五月雨を集めてはやし最上川(『奥の細道』)


 二十数年前、奥の細道を訪ねて数人の仲間といっしょに東北を旅したことがある。仙台駅に集合し、そこからこの句の立て札がある最上川の川辺に行った時のことを鮮明に覚えている。当時の確かに最上川の流れを速いと感じた。
 ところで、この句の季語は「五月雨」で、季節は夏。旧暦五月の雨とは、新暦で言えば、6月の雨、つまり梅雨にあたる。
 今日の雨は五月雨ではないものの、雨を見ながら、かつての東北旅を思い出した。


 新緑に水玉光りあでやかに

裸の王様

テレビで茶碗の話をしている。
国宝の茶碗だというのを見て思う。
これのどこがいいのだろうか。
使えない茶碗なんて意味がない。


歌舞伎を見に行ったことがある。
かつては大衆のものだったはずなのに
今では高級な芸術になった歌舞伎。
理解できずに眠ってしまう。


美術館で真っ黒な絵を見た。
ただ黒いだけだが芸術だと言う。
まったく理解できないが、
数百万円だと言う。


王様が黒を白だと言えば、みな白だと言う。
そこへ有名な服を作る職人が来て、
馬鹿者には見えない服を王に着せる。
実は何もなくて、王様は裸だ。


自尊心の高い人々はみなほめちぎる。
王様も素晴らしい着物だと言う。
みんながほめる中で、
子供だけが「王様は裸だ」という。


有名な落語「はてなの茶碗」同様、
誰が使ったものだからと値が上がる。
使えなくても値が上がる。
人が高く買うからと値が上がる。


そんな時、子供が言う。
この茶碗と百均の茶碗とどこが違うの?
使えない茶碗より、軽くて割れない、
百均の茶碗のほうがいいよと。

落花

落花といえば、普通は桜の花を表すが、
今の時期落ちる花はハナミズキやツツジの花だ。
仕事の帰り、公園を歩いていると、あちこちに花が落ちている。
道端を賑わしたツツジが次第に色あせ、茶色になり、落ちていく。
ハナミズキの白い花はほとんど散ってしまった。
草に埋もれた白い花を見て、あわれと季節の移ろいを感じる。
ふと思えば、人も華やかな若いころを通り過ぎて、次第に色あせる。
そして、散っていく、それを惜しむのもよいが、悲しむことはない。
それが自然の定めなのだから。
枯れ落ちた花は栄養となり、生命は次の世代に受け継がれる。
人も同じく、枯れ落ちて、次の世代に受け継がれるのだ。
だから惜しむことはあっても、悲しむことはない。