川面の水草にハグロトンボがいっぱい止まっている。
ちょっと飛んでは、水草で羽を休めている。
寿命はセミより長いらしいけど、飛び方は儚げだ。
ハラハラ、ヒラヒラ飛んでいる!
ぼくは仕事もないけど何とか生きている。
フラフラ、ヘラヘラ生きている。
心配なのは世の中だ!
ホラ、ホラ、コロナのせいで、メチャクチャだ。
まるで世紀末が来たみたいだよ。
川面の水草にハグロトンボがいっぱい止まっている。
ちょっと飛んでは、水草で羽を休めている。
寿命はセミより長いらしいけど、飛び方は儚げだ。
ハラハラ、ヒラヒラ飛んでいる!
ぼくは仕事もないけど何とか生きている。
フラフラ、ヘラヘラ生きている。
心配なのは世の中だ!
ホラ、ホラ、コロナのせいで、メチャクチャだ。
まるで世紀末が来たみたいだよ。
8月1日は関東地方も梅雨明けしたというが、1日の早朝は大雨が降っていた。昼になって晴れてきたが、夕方には黒い雲が空を覆っていた。
深夜過ぎて、ふと窓外を見ると、旧暦六月、水無月十三日の月が西空にかかっていた。久しぶりに見る月だ。たぶん一ヶ月ぶり。何しろ先月30日以後、月も星も見ていない。
ところで、コロナの感染者数は、毎日のように、東京都をはじめ、全国的に過去最高を記録し続けている。
GOTOキャンペーンの影響ではないのだろうか。政府の指導に従って、外出を始めた結果なのではないのだろうか。その点が気がかりだ。
ほぼ50日続いた関東地方の梅雨がまもなく終わりそうだ。蟬はずいぶん前から鳴き始めている。ただ、声は聞こえても、姿は見えないというのが7月だ。ところが、今年はしばらく前に、木に止まって鳴いている蟬を目にすることができた。
31日には、ベランダで仰向けになっている蟬がいた。しばらくすると、バタバタとしている。死んではいなかった。母が、つまんでベランダから外に放り出したら、飛んでいった。
梅雨は終わるのかもしれないが、この七月は珍しい月だった。台風は来ない、コロナ感染者は増える。月も星も見えない。
とはいえ、蟬の声、蟬の死にそうな姿、カナカナという蟬の声などを聞いていると、季節は一気に秋に向かっているような気がした。梅雨は停滞していたが、季節は勝手に秋に向かっている。
今、窓の外はザーザーと雨が降っている。梅雨は本当に明けるのだろうか。疑問だが、残り一週間で立秋だ。梅雨のまま、立秋だなんてことはないだろうが、ともかく、秋は立つ。どんな立秋になるのだろうか。仕事は相変わらずない。コロナ自粛もまだ続きそうだ。
散歩中、道ばたで見かけた茄子の実と花、農家の方が育てているのだろうが、道ばたなので、堂々と撮らせてもらった。
ところで、茄子はよく食べているのに、茄子の花は初めて見た。花があるのは映像で見たことがあるが、実際に目にするのは初めてだ。
こんなのはよくあることに違いない。知識として知ってはいるものの、この目で現実に見たことがない。
生き物で言えば、クジラ、サンショウウオ、朱鷺、白鳥などだ。世界の都市で言えば、ハワイ、ニューヨーク、パリ、ロンドン等、すべて、映像でしか見たことがない。日本の観光地も同様だ。札幌、沖縄、金沢、天橋立など、知っているが、行ったことがない。
コロナウィルスも知識としては少ないながら知っている。だが、やはり、それに罹患した人も、ウィルスそのものも実際にこの目で見たことがない。
何年生きようと、また、あちらこちら出かけていようと、人には皆、そういうものが世界中にいっぱいあるのだろうなと思う。
散歩していて、最初に猫を見付けたのは母だ。母は猫に向かって赤ん坊をあやすような声を出した。
この猫、数枚撮影させてもらい、また先へ歩くと、似た顔だが、少し色の違う猫に出会う。こちらは眠っているようだった。
ぼくの母はまた陽気に声を掛ける。猫もまた、目を開いてこちらを見てくれた。それが、明るい笑顔に見えた。
散歩中には、人との出会いもある。見知らぬ人とすれ違う時には、できるだけ、距離を取って、マスク越しに、「こんにちは!」と挨拶する。忙しく仕事をしている人には「お疲れさまです」と声掛けをする。人との交流といえば、こうした程度だが、猫や鳥たちとは出会いは人の場合とは違う楽しみがある。
人的交流にブレーキをかければ、経済が停滞する。経済のアクセルを踏めば、コロナ感染者が増える。今、一日のコロナ感染者数をみれば、明らかに第2波が来ている。こんな状況で、ぼくにとっての一番の楽しみは散歩と動植物たちとの出会いだ。
ぼくらにできる新しい日常なんて小さなものだ。当分の間、飲み会や会食なんてもってのほかだし、人との触れ合いも恐ろしい。生き方やものの価値は大きく変化している。
今後、飲み屋、クラブ、風俗店、ホストクラブ、観光業などは縮小、あるいは消滅する運命にあるのかも知れない。そればかりか、デパートも危ない。少なくとも、当面の間は、所謂「三密」を作り出す施設、業界は静かにするほかないだろう。
そして、多くの人は、出費を抑え、三密を避けながら、料理をしたり、近くを散歩したりして、自然や、動植物を愛でるほかないということだが、そこに、消極的ではなく、積極的に味わう気持ちがあれば、新しい日常も楽しいものだ。