日々是好日 - Seize the Day

煩悩だらけで無力で、罪深い人間の戯言です。

サフラン

「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。すべての物にある。」
 ロクさんの今日のブログ記事、「咱夫藍(サフラン)」を読んで、久しぶりに森鴎外の作品を思いだした。引用したのは、鴎外の随筆「サフラン」(1914年3月、鴎外52歳の時の作品)の書き出しである。確かに名を聞いて人を知らぬということは確かに多い。鴎外は父親にオランダ語を習っていて、字書の中にサフランというのを見付けた。漢字三字だが、活字にないので、「『水』の偏に『自』の字である。次が『夫』の字、又次が「藍」の字である。」と説明している。
 名前は知っていても実物をみたことがないまま、50を過ぎた。そして1913年12月、花屋でサフランを売っているのを見付けて、買った。だが、二、三日で枯れた。それが翌年、青々とした草が出て来たそうだ。それから、水を遣らずにはいられなくなったというのだ。水を遣れば、弥次馬、遣らなければ、独善とか残酷とか冷淡とか云うことになる。人の口を気にしていれば、何も出来ないということだ。
 サフランと自分の出会いはそれだけで、行きずりの袖がふれあうようなものという。最後に「宇宙の間で、これまでサフランはサフランの生存をしていた。私は私の生存をしていた。これからも、サフランはサフランの生存をして行くであろう。私は私の生存をしていくであろう。」と締めくくっている。
 ぼくは多くの人と、物と、動植物と出会ったり、すれ違ったりして、関わってきたが、そこに自分がどれだけ関わってきたか考えて見れば、冷たいもので、浅い関わりの連続だ。彼は彼で生きてきたし、ぼくはぼくで生きてきた。これからも同じように生きていくのだろう。


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