文武両道
今、オリンピックが地球の反対側で行われている。テレビの実況放送でオリンピックを見ようとすると、必然的に深夜12時ごろから昼の12時ごろまでテレビの前に釘づけ状態となる。
小さな日本人が大きな西洋人を打ち破る柔道やレスリング、それにラグビーなどは本当に魅力的だ。大リーグのイチロー選手もそうだが、やはり、体格的に劣る日本人でもがんばればできるのだと勇気づけられる。
被災地の人たちも勇気づけられるだろう。オリンピック選手たちも、「勇気を与えられたらと思って頑張ります」というような発言をする。高校野球の選手たちさえ、そういう発言をするような時代になった。
スポーツで勇気づけられるのはもちろんいいことだが、ただ心配なのは、そうしたスポーツ選手たちの中で、「お父さんが来てくれたので、がんばりました」とかいう発言を聞いたとき、幼いなと思ってしまうことだ。
スポーツで好成績を上げた学生が勉強ができなくても、スポーツ推薦で、進学できるという制度があった。プロ野球で大活躍した選手を中学校で教えたことがあるという教師から、「あいつは教室でいつも寝ていた」という話を聞いたことがある。
学業とスポーツを両立させる「文武両道」ということばがある。かつてはそれが当たり前だと思っていたが、高校でも大学でも、スポーツで学校名を宣伝できれば、それでよしとする考えが蔓延したとき、スポーツ優先の時代になってきたように思う。高校野球や大学駅伝を見ていても、全国から優秀な選手を集められる私立のほうが公立を圧倒している。まるで選手は広告塔のようなものだ。
そんなことを言っているわたしはといえば、文武両道を目指しながら、勉強もスポーツも中途半端な人間だ。いっそ学問だけで、あるいは、スポーツだけで有名になり、金持になるほうがいいのかもしれないという気持ちもある。それぞれに秀でた者がそれぞれの世界をリードし、人に勇気を与えれられたら、それでもいいではないかと思う。
それでも、やはり、学業とスポーツの両立ができなくて本当にいいのだろうか。そう思ったとき、思い出すのは孔子のことばだ。学問の基礎は徳だと言っている。学問と言っても、ただ成績がすぐれているだけでは意味がない。スポーツでも技術や運動能力がすぐれているだけではだめなのだ。どちらにおいても、やはり、徳のある人物は素晴らしいと思う。そういう学識者、あるいはスポーツマンたちこそ本当に優れた人というべきだろう。