不確実性!
関東甲信地方でも梅雨が明けたそうだ。
気象庁の表現で気になる表現がある。
「梅雨が明けたとみられる」という気象庁の言い方だ。「~とみられる」の使い方は例えば、「泥棒は窓から入ったとみられる」「景気回復の兆しがみられる」「反対投票を投じるとみられる」など、たぶんそうだと思うときに使うもの。確率的には80%前後だろう。
ということは訂正されることもありうるということだ。なぜ、そんなあいまいな表現なのだろうかと不思議に思った。梅雨明けはもしかしたら、梅雨に戻る可能性もあるということだろうか。
諸葛孔明が赤壁で行った予想と同じだ。可能性大だというに過ぎない。外れることもありうる、それが現代の天気予報でも、同様に可能性大だということで、「~とみられる」という表現が使われるのだろう。
人生はすべて予測不可能だ。そして、過去のことにしても確実に言えない事が多い。例えば、何らかの事件があっても確実に言えない。「北朝鮮はミサイルを発射したとみられる」という表現があったとする。本当にそうなのかどうかわからない。実は、何もしていない可能性もあるということだ。
こんな表現を聞くたびに、日本語は面白いと思う。我が国が世界に発信する「かわいい」より、「~とみられる」などの不確実性を表す表現のほうがずっとおもしろい。
そんな日本語はたくさんある。「おそらく」「たぶん」「のようだ」「みたい」「言えるだろう」「いえるのかもしれない」等。それらは日常的に頻繁に使われる。それだけ、日本人が不確実性を常に認識しているという証なのだろう。