日々是好日 - Seize the Day

煩悩だらけで無力で、罪深い人間の戯言です。

手紙を書きますか?

 今日、テレビに松田龍平が出ていた。そろそろ認知症の気がある母に「松田優作の息子が出ているよ」と言ったら、「松田優作ってどんな人?」って聞き返してきた。「『太陽にほえろ』は覚えてる?」と聞けば、「名前も覚えてるけど、顔は忘れた。」という。そこで、スマホを使って松田優作を画像で検索し、すぐに出して見せたら、「ああ、この顔ね。」


 社会はどんどん便利になっている。道に迷子になっても、スマホで地図を出せば、自分のいる場所もわかる。スマホで夏目漱石も芥川龍之介も読める。今、朝日新聞で夏目漱石の「吾輩は猫である」を連載しているが、おそらく、本で読んだ人も、またスマホで読む人もいる。新聞で読もうとは思わないのではないか。


 そういえば、今日、日本語の授業で手紙を書きますかという話をした。結果はほとんどの人が書かないようだ。実は私もはがきも年賀状も書かない。年賀状もやめた。今はもっぱら、メールで用事を済ませている。このブログにしてもそうだ。昔、自分の詩を発表するために、地方の同人誌に投稿したり、仲間内で数万円ずつ出し合って、印刷屋と掛け合い、何とか自費出版をしたことがある。そんな時代が遠いと感じるようになった。


 この間、職場の仲間に連絡するのに、SNSを送ろうとしたら、前の前に、その相手がいた。今SNS送ったよと一言で、別れた。以前勤めていた会社でも、連絡事項はEメールを使っていた。いつもメールチェックをしていないと、仕事ができない状態になっていた。今もそうだ。夜、自宅でメールチェックし、仕事に関するやり取りをしている。実際に顔を見ながら連絡することはほとんどない。


 世の中、便利になったものだと思う。便利になればなるほど、何かを失っているような気がする。紙の本のぬくもりのようなもの、人との温かい交流、酒を飲みながら口論するというような付き合い方。いつの間にか、職場であるいはネット上で仲良くしていても、現実的には何だか冷たいような気がしてくる。だから、年に1,2階行われる親睦会があると出席するのだが、そこで、何となく気まずく、話しづらいような気がする。メールなら結構話せるのにと思ってしまう。


 解決策はあるのだろうか。そこには大きな壁がある。メールやSNSで頻繁に連絡を取っているのだから、忙しい中、わざわざ時間を取って顔を合わせなくてもいいのではないかと思ってしまうことだ。生まれた時からコンピューターがあったという人たちにとっては、別に顔を合わさなくても連絡が取れる時代なのだから、それでいいじゃないかと思うだろう。そういう人のほうが多いことだ。だが、どうしても何かが欠けているような気がしてならない。


 そこで、私の意見はこうだ。メールやSNSは手紙やはがきの代わりの代わりのものだと割り切ること。会って顔を見合わせて、話さなければ、決して心が通じることはないと強く思うこと。今はそれだけしか言えない。何かもっといい解決方法があればいいと思う。あるいは、もしかしたらこれでいいのだろうか。メールやSNSで温かい人間関係もできると思って積極的にこれらを活用するほかないのだろうか。

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