日々是好日 - Seize the Day

煩悩だらけで無力で、罪深い人間の戯言です。

一億総白痴化

 ここまで「でちゅまちゅ語」とか、年末のテレビの貧相なことを書いてきたけど、
結局、これは「一億総白痴化」の結果なんだと思う。テレビのCMで「うさぎでちゅ」とかいうのを聞いたり、ポケモンやゲームのCMを深夜にするのを聴いたりするたびに、日本人のほとんどが子供になってしまったような気がしてならない。今の日本人と50年前の日本人を比べると、何だか国民の民度が下がったというほかない。以下、「一億総白痴化」に関するwikipediaの記事を引用する。

 一億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。

もともとは『週刊東京』1957年2月2日号における以下の論評が広まったものである。


 テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。

— 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」よりこの『一億白痴化』の中程に「総」がつけられて広まり流行語となったのが『一億総白痴化』である。


 『東京新聞』夕刊1957年1月27日のコラム「放射線」欄で、テレビの卑俗さについて「ある人はこれを国民白痴化運動」と言ったとする記事が出た。記事は「閑息亭」のペンネームで投稿されたが、筆致が大宅と似ていて、この記事が原典だと言われている。


 朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。このなかで松本清張が「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」という表現で「総」をつけた点が重要視されている。


 当時テレビの普及は始まったばかりだったため、この造語によって大宅は日本の「テレビ時代の初期においてその弊害を看破した」と評されている[1]。


 大宅がこの記事を書く動機となったのは三國一朗司会の視聴者参加番組『ほろにがショー 何でもやりまショー』(日本テレビ、1956年11月3日放送分)であるとされている。大宅の娘でジャーナリストの大宅映子の談話によると、出演者が早慶戦で慶應側の応援席に入って早稲田の応援旗を振り、大変な騒ぎになって摘み出される場面を見た大宅は「阿呆か!」とつぶやいたという。


 このように、当時の識者たちはテレビを低俗なものと批判しているが、その背景には書物を中心とした教養主義的な世界観があった。


 書物を読む行為はみずから能動的に活字をひろいあげてその内容を理解する行為であり、それには文字が読めなければならないし、内容を理解するために自分の頭のなかでさまざまな想像や思考を凝らさねばならない。これに対してテレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れてくる音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといったことを指摘している。


 「一億総**」という用法に関しては、これ以前にも太平洋戦争で本土決戦が差し迫った際の「一億玉砕」「進め一億火の玉だ」、敗戦後の「一億総懺悔」(当時の首相東久邇宮稔彦王)といった語もあり、大勢に流れやすく流れに棹差す日本人の集団主義心性も表している。高度経済成長以後には55年体制下安定した政治経済を背景に貧富の差の少なくなった「一億総中流」といった語も生まれた。2015年には「一億総活躍」なる言葉も生まれた。


 でちゅまちゅ語、および、かつては子供のものだったゲームに大人がはまる現象は
間違いなく、大宅壮一が予想した結果だ。だが、この後どうなるのかについては、大宅壮一も想像していない。いい結果になるのかもしれないし、また悲惨な結果になるのかもしれない。
 言えることは日本国民の多くが子供の精神を持ち続けていること、言い換えれば子供っぽくなっていることだ。それでも、こういう状況に未来の可能性を感じないわけではない、
 世界に誇る日本文化の一つになっているアニメやファッション、それらが今後どう変化していくのか楽しみだ。

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