カルガモの散歩
散歩中にカルガモ一家を見かけた。彼等も散歩中のようだ。
ふと、思った。
カルガモたちは何を思いながら散歩しているのだろうか。
そもそも、ぼくは散歩中、何を考えているだろうか。
足腰が痛いから、どこで休もうかとか、いい景色はどこにあるだろうかとか、
ああ、どこかでコーヒーでも飲みたいなとか、いろいろ考えているが、それは、ほとんど生きることとは関係ない。趣味的なものだ。人の散歩は趣味だ。
もちろん生きるためもある。疲れた神経を緩めるとか、足腰を鍛えるとか、生きるために必要だと言えば言えなくもない。だが、楽しみであることに間違いない。
カルガモはどうだろうか。何を考えて散歩しているのだろうか。聞いてみたい気がする。
いや、夢の中でもいい。カルガモの世界に入って体験してみたいと思った。
「邯鄲の枕」において、炊きかけの大粟が炊き上がらないわずかな時間で「一炊の夢」で蟻の世界に入り、波瀾の人生を生きた青年、盧生のように。