日々是好日 - Seize the Day

煩悩だらけで無力で、罪深い人間の戯言です。

命!

 朝、目が覚めて、テレビをつけると、おいしいものを食べて、満面の笑顔で、「うまい!」とつぶやくタレントの顔が映っている。贅を尽くして、至福の境地を味わう。そうした伝統が、世界無形文化遺産に登録された和食文化を育んできたのだろう。それでも、食べ物に贅を尽くすという点に関しては、何故か反発を感じる。単に贅沢が嫌いだからというのではない。


 食事の前に「いただきます」という習慣は、実は「生き物の命をいただきます」という感謝の言葉だという。人は生きるために、動植物の命をいただいている。動物はもちろん植物にも命がある。その命をもらって人間は生きている。「命をいただく」際に、「贅を尽くす」ということが何か違和感を感じて、心にひっかかるのだろう。


 社会人になった時、驚いたことがある。トラックで運ばれる生きている豚を見てどう思うかという話題になった。ある人が言った、「おいしそうだ!」と。それは考えられないだろうと言ったが、「おいしそうだ」と思う人のほうが普通だと言われた。では、牛の場合はどうか?魚の場合はどうか?ぼくは、いろいろな人と感想が違うようだ。


 20代前後のころ、ぼくは暗い生き方をしていた。そんな中、親友が自殺した。葬儀は大学の街で行われ、葬儀の後、親友の兄がぼくらに言った。「君たちには弟の分も生きてほしい」と。それから、少し前を向き始めた。それから4年後、父が突然の病気で亡くなった。それまであまり好きではなかった父だったが、ぼくは、死後、父の生涯をいろいろな人に尋ねた。その間に、父の思いが少し見えてきた。ぼくは父に似ていると思った。命が引き継がれたように感じた。


 その後ぼくは強く思った。ぼくは親友の命と父の命を引き継いで生きているんだ。たぶん、そのころからだと思うが、「死ぬまで生きる」ということを意識し始めた。つまり、「どんなに下手でもかまわないから、死ぬまで精いっぱい生きる」ということを考え始めた。命あるもの、その命を粗末にしてはいけない。自分の命も他の命も尊重しなければならない。「死ぬまで生きること」こそ、生きるものの宿命だと思った。


 先日、テレビで、現役医師として、105歳で亡くなられた日野原重明氏の生涯をつづるドキュメントを見た。彼は100歳を過ぎても、命の重要さを各所で説き続けた。彼の生き方にひどく共感したと同時に、ぼくの考えはまだまだ甘い。もっと自分の心に真剣に立ち向かわなければならない。自分の人生、これからだと思った。

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