日々是好日 - Seize the Day

煩悩だらけで無力で、罪深い人間の戯言です。

言い間違い!

 三学期の終業式で、校長先生が高校生たちに、年度最後の演説をしていた。「きみたちはなついあつもふゆいさむもよくがんばった。」。一瞬、何を言っているのかわからなかったが、ちょっと考えればすぐわかる。「暑い夏も寒い冬もよく頑張った」と言いたかったのだ。その間違いに最初に気づいた一人の高校生が大笑いした。

 それから、笑いは徐々に広がっていった。そして、教員たちも笑い出した。といっても、教員たちは口を押えて、笑い声が漏れないようにした。

 最後に、たった一人気づいていない校長先生はテーブルをたたいて、怒鳴った。「私が話しているのに、どうして笑うんだ!後になって考えれば、こんな間違い結構、あるんじゃないかと思った。

 例えば、「あらたしい」という言葉だ。本来、「あらたし」という形容詞だった。ある若者が言い間違えた。「あたらし」と。それから、「あたらし」が流行し、いつの間にか間違いが多数を占め、言葉が変わってしまった。

 発音の問題にも同じようなものがある。「情緒(じょうしょ)」という言葉、誰かが言い間違って、いつの間にか「ジョウチョ」になってしまった。「出生(しゅっしょう)」という言葉を誰かが「しゅっせい」といい間違って、それがいつの間にか「しゅっせい」が正しいとなっている。ひどいのは明解国語辞典だ。正しいほうを「老人語」とした。反発は多かった。

 「白いの車」。幼児語であるが、お母さんもいっしょに幼児と一緒に言っている。これは文法の間違いだが、日本語を学ぶ外国人も手伝って、このように言う人が少しずつ増えている。(まだ少ないと信じる)

 ほかにもあるに違いない。校長先生の間違いは、決して流行することはなかったが、間違いは誰にもあるということだ。そして、間違いはずっと間違いではない。時には市民権を得ることもあると思うのだ。

 用語間違いの例もある。自分の母親は「わたしの母」と言い、相手の母親は「あなたのおかあさん」と言うのが正しい。「~さん」「~様」は尊敬語だ。自分の母親をそういう言葉で表現するのはおかしいというのが日本語だ。だが、近頃、「わたしのおかあさん」という表現がテレビで何度も聞かれる。そのうち市民権を得るんだろうなと思う。

 今、思うことはただ一つ、間違いは間違いのままで終わることはない。時には笑いを誘い、時には市民権を得る場合もあるということだ。そして、言葉は生きているのだ、日々変化し続けているのだということ。ぼくがその変化について行けるかどうかということだ。決して目を背けることなく見つめていきたいと思う。

 それから、先生も言い間違える。それを批判するのも間違いだ。確率の問題だ。50%間違える先生はちょっと問題だが、10%程度なら、当然のことだと思う寛容さが必要だと思う。ただし、倫理的あるいは道徳的な過ちについは論外だ。

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